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歴史・戦国

どこからどこへ転職するパターンが多いのか?

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この記事で分かること

  • 最も多かった移動はどの家からどの家か
  • 人を集めた家と、人を出した家はどこか
  • 行ったり来たりが起きるのは、どんな家か

1.人はどこからどこへ移ったのか

戦国武将には、生涯で何度も主君を替えた人がいます。では、その移動には決まったパターンがあったのでしょうか。

武田家を出た人は、どこへ行ったのでしょうか。徳川家に集まった人は、どこから来たのでしょうか。

どこからどこへ移るパターンが多かったのでしょうか。人の流れを図にしてみます。

Wikipedia に載っている戦国武将の情報には、仕えた主君が順番に並んでいます。ここから、隣り合う2つの家を取り出せば「移動」が数えられます。

2.移動を2,792回ぶん取り出す

使うのは Wikipedia の「Category:戦国武将」と、そのサブカテゴリの「Category:戦国大名」です。各ページの基礎情報欄には「主君」という項目があります。

Category:戦国武将 - Wikipedia戦国時代の武将を集めたカテゴリ。各記事には氏族・主君・生没年などをまとめた基礎情報の欄があります。ja.wikipedia.org

たとえば山内一豊の主君欄は、こう並んでいます。

山内一豊の主君欄から取り出した移動
浅井 → 前野 → 牧村 → 山岡 → 豊臣 → 徳川

浅井→前野、前野→牧村、牧村→山岡、山岡→豊臣、豊臣→徳川  = 5回

この数え方で全員分を集めると、のべ2,792回の移動が取れました。組み合わせは1,035通り、登場する家は346家です。

3.流れを図にしてみる

まず、人数の多い流れだけを抜き出して図にします。帯が太いほど、移った人が多い流れです。

戦国武将の主な移動(14人以上の流れのみ)
織田 → 徳川:41人豊臣 → 徳川:201人武田 → 徳川:91人今川 → 徳川:43人北条 → 徳川:30人斎藤 → 織田:40人足利 → 織田:31人浅井 → 織田:17人朝倉 → 織田:14人武田 → 織田:17人織田 → 豊臣:206人大内 → 毛利:68人尼子 → 毛利:22人小早川 → 毛利:21人斎藤 40足利 31浅井 17朝倉 14武田 108今川 43北条 30大内 68尼子 22小早川 21織田 247毛利 111豊臣 206徳川 406

※ 帯の太さが人数。数字はその家の出入りのうち、多いほうの人数です。

左から右へ、時代が進みます。滅んだ家から人が出て、次の勝者に吸い込まれ、最後は徳川家にたどり着きます。そういう形になりました。

西国だけは別の流れになっています。大内・尼子・小早川から出た人は毛利家へ向かい、徳川家までは来ません。

4.最も多かった移動、上位10

図に描ききれなかった分も含めて、数字で見ます。

人数の多かった移動 上位10
順位移動人数主な武将
1位織田 → 豊臣206人黒田孝高・前田利家
2位豊臣 → 徳川201人藤堂高虎・立花宗茂
3位武田 → 徳川91人大久保長安・秋山虎康
4位大内 → 毛利68人宍戸隆家・内藤隆春
5位今川 → 徳川43人牧野成定・設楽貞通
6位織田 → 徳川41人下方貞清・遠山利景
7位斎藤 → 織田40人蜂須賀正勝・仙石秀久
8位足利 → 織田31人明智光秀・細川藤孝
9位北条 → 徳川30人真田昌幸・今川氏真
10位上杉 → 北条23人太田資正・真田信之

上位2つが飛び抜けています。織田から豊臣へ206人、豊臣から徳川へ201人。

これは天下人が替わった動きです。本能寺の変で織田家が割れ、秀吉が跡を継ぎ、その豊臣家も大坂の陣で滅んで徳川家に吸収されました。教科書の流れが、そのまま人数として出てきました。

3位の武田から徳川へ91人も同じです。1582年に武田家が滅んだあと、家康は旧武田家臣を大量に召し抱えました。井伊直政のもとに配属された「赤備え」が有名です。

5.家ごとに、出ていった先を追う

全体の流れが見えたので、こんどは家ごとに細かく見ていきます。人を多く送り出した家から順に、その人たちがどこへ向かったのかを追います。

先に言っておくと、行き先が1つに集中する家と、ばらばらに散る家があります。その違いにも意味がありました。

織田家:357人 — 最大の供給源

行き先人数割合主な武将
豊臣206人58%黒田孝高・前田利家
徳川41人11%下方貞清・遠山利景
明智14人4%京極高次・武田元明
柴田7人2%徳山則秀・佐久間勝之
前田6人2%長連龍・不破直光
ほか41家83人23%—

最も多くの人を送り出したのが織田家でした。同時に248人を受け入れてもいるので、差引では109人のマイナス。最大の受け皿でありながら、最大の供給源でもあります。

行き先の6割は豊臣家です。本能寺の変のあと、秀吉が織田家の家臣団をそのまま引き継いだ結果でしょう。

3位に明智家が14人入っているのが目を引きます。ただしこれは謀反に加わった人ばかりではありません。京極高次や一色義定のように、光秀が近江や丹波を任されたときに与力として付けられた武将が中心です。

行き先は46家に散らばり、うち20家は1人だけでした。家臣団が大きい家ほど、行き先も広がります。

豊臣家:318人 — 6割が徳川へ

行き先人数割合主な武将
徳川201人63%藤堂高虎・立花宗茂
前田16人5%高山右近・津田重久
小早川9人3%稲葉正成・山口宗永
石田7人2%島清興・前野忠康
織田6人2%百々綱家・佐藤方政
ほか38家79人25%—

織田家から流れ込んだ人たちが、今度は徳川家へ流れ出ていきます。6割超という集中度は、上位の家のなかで最も高い数字です。

2位の前田家16人にも理由があります。前田利家は秀吉と同じ織田家の出身で、豊臣政権では五大老の一人。豊臣家に近い場所にいた家でした。

石田家へ移った7人は、関ヶ原で西軍に付いた人たちです。数としては少数派でした。

武田家:193人 — 四方へ散った

行き先人数割合主な武将
徳川91人47%大久保長安・秋山虎康
織田17人9%真田昌幸・遠藤慶隆
北条15人8%保科正直・天野藤秀
滝川13人7%小幡信真・浦野真楽斎
上杉12人6%真田信尹・芋川親正
ほか22家45人23%—

1582年に武田家が滅ぶと、家臣は周囲の勢力に吸収されました。最も多いのは徳川家の91人で、井伊直政のもとに配属された「赤備え」がよく知られています。

興味深いのは4位の滝川家です。滝川一益は織田家の宿老で、武田滅亡後に上野国を与えられました。旧武田家臣13人が、そのまま新しい領主に仕えたことになります。

ところがこの13人は、そこにも落ち着けませんでした。

武田 → 滝川 → 北条 と続く人が、12人います。

本能寺の変の直後、一益は神流川の戦いで北条軍に敗れて上野を放棄します。取り残された旧武田家臣は、今度は北条家に仕えました。3年のあいだに主君が3回替わった人たちです。

今川家:78人 — 駿河と遠江で分かれた

行き先人数割合主な武将
徳川43人55%牧野成定・設楽貞通
武田19人24%岡部元信・小原鎮実
織田3人4%中村元勝・三宅高貞
ほか10家13人17%—

上位2家で8割を占めます。この偏りには、地理的な理由がありました。

桶狭間で義元が討たれたあと、今川領は徳川家康と武田信玄に挟み撃ちにされます。1568年、家康が遠江を、信玄が駿河を取りました。

つまり43人と19人の差は、その武将がどちらの国にいたかの差です。本人が選んだというより、住んでいた場所で行き先が決まりました。

大内家:96人 — 西国で完結した

行き先人数割合主な武将
毛利68人71%宍戸隆家・内藤隆春
尼子14人15%三吉致高・山名理興
大友7人7%原田隆種・城井鎮房
ほか5家7人7%—

大内家の特徴は、行き先がわずか8家しかないことです。織田家の46家と比べると、極端に狭い範囲に収まっています。

毛利・尼子・大友。いずれも中国地方から九州にかけての勢力です。西国の武将は西国のなかで移っており、畿内や東国には出ていきませんでした。

1551年に陶晴賢の謀反で大内義隆が倒れ、その陶氏を毛利元就が厳島で破ります。大内家の家臣団は、そのまま毛利家のものになりました。

北条家と上杉家:互いが最大の行き先

北条家を出た89人
行き先人数割合主な武将
徳川30人34%真田昌幸・今川氏真
上杉20人22%太田資正・安中重繁
豊臣5人6%板部岡江雪斎・由良国繁
武田5人6%藤田信吉・笠原政晴
ほか18家29人33%—
上杉家を出た88人
行き先人数割合主な武将
北条23人26%太田資正・真田信之
武田13人15%北条高広・安中重繁
織田11人13%神保氏張・小笠原長時
徳川7人8%甘粕重政・藤田信吉
豊臣7人8%真田昌幸・真田信繁
ほか18家27人31%—

この2家は、互いが上位の行き先になっています。北条を出た20人が上杉へ、上杉を出た23人が北条へ。ほぼ同数が入れ替わりました。

1569年、両家は武田信玄に対抗するため越相同盟を結びます。しかし2年で手切れとなり、また敵に戻りました。関東の国衆は、そのたびに従う相手を替えています。

上杉家の行き先は、上位3家を足しても53%にしかなりません。今回見た家のなかで最も散らばっています。決まった行き先がないのは、周囲がすべて敵で、どこへでも移りえたということでしょう。

斎藤家:60人 — 3人に2人が織田へ

行き先人数割合主な武将
織田40人67%蜂須賀正勝・仙石秀久
武田5人8%海野幸光・鎌原重澄
森3人5%各務元正・井戸宇右衛門
ほか10家12人20%—

1567年、信長が稲葉山城を落として美濃を併合しました。3人に2人がそのまま織田家に仕えています。

美濃三人衆と呼ばれた稲葉一鉄・氏家卜全・安藤守就のように、織田方に寝返って所領を安堵された例が多かったためです。国ごと取り込まれると、家臣もまとめて移ります。

龍造寺家:33人 — 転職ではなかった

行き先人数割合主な武将
鍋島19人58%成富茂安・多久安順
島津6人18%赤星統家・原田信種
豊臣4人12%鍋島直茂・松浦鎮信
ほか3家4人12%—

最後に、少し毛色の違う例を挙げます。鍋島家は受け入れ20人に対して送り出しが1人だけで、差引ではプラス19人。今回見たなかで最も一方通行の家です。

そしてその19人は、すべて龍造寺家から来ています。

鍋島直茂は龍造寺家の家臣でしたが、隆信の死後に実権を握り、やがて主家に取って代わりました。家臣が移ったのではなく、家ごと看板が替わった形です。

主君欄の上では転職に見えても、実態は乗っ取りでした。

散らばり方に出る、家の性格

8家を並べると、行き先の散らばり方に差があることが分かります。

行き先の散らばり方
家送り出した人数行き先の数上位3家の割合
織田357人46家73%
豊臣318人43家71%
武田193人27家64%
大内96人8家93%
北条89人22家62%
上杉88人23家53%
今川78人13家83%
斎藤60人13家80%

大内家は8家に93%が集中し、上杉家は23家に散って上位3家でも53%どまりです。人数はほとんど同じなのに、形がまるで違います。

一度に滅んだ家は行き先が集中し、じわじわ削られた家は散らばります。

大内・今川・斎藤のように、ある年に滅んで領国ごと吸収された家は、家臣もまとめて次の主君に移りました。一方の上杉家は滅んでおらず、長い年月をかけて少しずつ人が抜けています。だから行き先もばらけました。

6.徳川家には、どこから来たのか

最も人を集めた徳川家について、もう少し細かく見てみます。543人はどこから来たのでしょうか。

徳川家に入った543人の出身(上位5)
出身の家人数割合主な武将
豊臣201人37%藤堂高虎・立花宗茂
武田91人17%大久保長安・秋山虎康
今川43人8%牧野成定・設楽貞通
織田41人8%下方貞清・遠山利景
北条30人6%真田昌幸・今川氏真

上位5家で全体の75%を占めます。そして残りは、実に71家に散らばっていました。

顔ぶれを見ると、武田・今川・北条と、徳川家が直接ぶつかった相手が並びます。倒した相手の家臣を取り込みながら大きくなっていった様子が、そのまま数字に出ています。

出ていった81人の行き先も見ておきます。武田へ12人、豊臣へ11人、織田へ7人。これは家康がまだ小勢力だった頃の話が中心です。

7.行ったり来たりする組がある

ここまでは一方通行の流れでした。ところが、両方向に人が動いている組み合わせもあります。

両方向に人が動いた組
組→←主な武将
上杉 ⇄ 北条23人20人太田資正・真田信之
大内 ⇄ 尼子14人11人三吉致高・山名理興
上杉 ⇄ 武田13人12人北条高広・安中重繁
毛利 ⇄ 小早川12人21人井上春忠・磯兼景道

上杉と北条は、先ほど見たとおり23人と20人でほぼ釣り合っていました。大内と尼子も同じ形です。中国地方の二大勢力に挟まれた国人たちが、勢いのあるほうへ付き替えていました。

共通するのは、どちらの組も長く隣り合って争い続けたことです。決着がつかないまま境目が動くと、そこにいた武将は何度も従う相手を替えることになります。

一方通行の流れは「家が滅んだ」印、双方向の流れは「境目だった」印です。

毛利と小早川だけは事情が違います。小早川家は毛利元就の三男・隆景が継いだ家なので、行き来があるのは当然でした。一族の中での異動です。

8.🔍 ちなみに、どうやって調べた?

ここからは、今回の集計方法について少し詳しく説明します。

「主君の並びから、どうやって移動を取り出したの?」と気になった方はぜひどうぞ。

分析方法をくわしく見る

使用したデータ

Wikipedia 日本語版の「Category:戦国武将」と、そのサブカテゴリ「Category:戦国大名」に含まれるページから、基礎情報テンプレート({{基礎情報 武士}})の内容を取得しました。2026年8月時点のデータです。

区分件数
名寄せ後の全ページ5,553
主君の記載があるページ4,731
取り出した移動(のべ)2,792
移動の組み合わせ1,035
登場した家346

移動の取り出し方

主君欄を仕えた順の家の並びに直し、連続して同じ家が続く部分をまとめてから、隣り合う2つを1回の移動として数えました。

「徳川家康 → 秀忠」のように当主が替わっただけの並びは、家が変わっていないので移動に数えません。名字が付いていない名前は、直前と同じ家として扱っています。

また、羽柴と豊臣、松平と徳川、「甲斐武田氏」の甲斐と武田は同じ家なので、あらかじめ寄せています。

名寄せの対応表
ALIAS = {"羽柴": "豊臣", "木下": "豊臣", "松平": "徳川", "甲斐": "武田"}

図の描き方

サンキー図には14人以上の流れだけを載せました。1,035通りをすべて描くと、線が重なって読めなくなるためです。

家は時代の順に4つの列へ置いています。列を飛び越える流れ(武田から徳川など)は、途中の列の上を通しました。ノードに添えた数字は、その家の受け入れと送り出しのうち多いほうです。

分析上の注意点

今回の数字は、Wikipediaの記載をもとにした集計です。次の点にご注意ください。

  • 1人が複数回移動していれば、その回数ぶん数えている(のべ回数である)
  • 移動の理由は区別していない。家が滅んだ場合も、自ら移った場合も同じ1回として数えている
  • 主君欄の書き方は記事ごとに異なり、統一された形式ではない
  • 姓が同じだけの別の家は区別できていない(加藤清正の家と加藤嘉明の家など)
  • 主君の記載がない822人は集計から除いている
  • 記録が残っている武将に限った分析であり、当時の武士全体の傾向とは限らない

9.まとめ

  • のべ2,792回の移動のうち、最多は織田→豊臣の206人、次いで豊臣→徳川の201人
  • 織田家は248人を集めながら357人を手放し、最大の受け皿かつ最大の供給源だった
  • 一度に滅んだ家は行き先が集中し(大内は8家に93%)、じわじわ削られた家は散らばる(上杉は23家)
  • 徳川家は543人を受け入れ、送り出したのは81人だけ。出身は76家にわたる
  • 上杉⇄北条のように両方向に人が動く組は、勢力の境目にあった家である

10.次に調べたいこと

今回の集計から、さらに気になる疑問が出てきました。

  • 移動した年が分かれば、流れの向きは時代とともにどう変わるのか
  • 同じ家から同じ家へ移った人たちは、同時期にまとまって動いたのか
  • 受け入れた家臣の数と、その後の石高に関係はあるのか
  • 一度出た家に戻る人は、どのくらいいるのか
  • 地理的に近い家どうしほど、移動は多いのか

人の流れを追うと、勢力図の移り変わりがそのまま出てきました。

誰がどの家に仕えたかは、一人ひとりの選択です。それを2,792回ぶん重ねると、個人の事情は消えて、時代の大きな流れだけが残りました。

転職者が多いブラック大名家・ホワイト大名家は?同じ主君欄のデータで、家ごとに人が出ていった割合を計算した記事。datasanpo.com

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