転職者が多いブラック大名家・ホワイト大名家は?
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この記事で分かること
- 人が出ていった家、残った家はどこか
- その差は「働きやすさ」で説明できるのか
- 家臣が最後まで残った家に、何が起きていたのか
1.転職する武将がいれば、転職される家もある
戦国武将には、生涯で何度も主君を替えた人がいます。藤堂高虎や水野勝成が有名です。
ここで、視点をひっくり返してみます。
転職する人がいるということは、転職される側の家があるということです。人がどんどん出ていった家と、誰も出ていかなかった家。その差はあったのでしょうか。
人が居つかない「ブラック」な家と、人が残り続ける「ホワイト」な家はあったのでしょうか。
Wikipedia に載っている戦国武将の情報から、数えてみることにしました。先に結果を言うと、順位そのものより「なぜその順位になるのか」のほうが面白い結果になりました。
2.「離脱率」を決める
使うのは Wikipedia の「Category:戦国武将」と、そのサブカテゴリの「Category:戦国大名」です。各ページの基礎情報欄には「主君」という項目があり、仕えた相手が順番に並んでいます。
Category:戦国武将 - Wikipedia戦国時代の武将を集めたカテゴリ。各記事には氏族・主君・生没年などをまとめた基礎情報の欄があります。ja.wikipedia.orgja.wikipedia.orgたとえば、こう書かれています。
浅井長政 → 阿閉貞征 → 磯野員昌 → 津田信澄 → 豊臣秀長 → …この並びの最後にある家が、その人が最後に仕えた家です。それより前に出てくる家は、途中で離れたことになります。
そこで、家ごとにこう数えます。
離脱率
- その家に仕えた人のうち、その家が最後ではなかった人の割合
- 高いほど「人が出ていった家」
対象は5,553人。このうち30人以上が仕えた家は36家ありました。この36家で比べます。
3.人が出ていった家、上位10
まずは離脱率が高いほうから見ていきます。
| 順位 | 家 | 仕えた人数 | 離れた人数 | 離脱率 |
|---|---|---|---|---|
| 1位 | 斎藤 | 74人 | 59人 | 79.7% |
| 2位 | 蒲生 | 31人 | 21人 | 67.7% |
| 3位 | 六角 | 35人 | 22人 | 62.9% |
| 4位 | 織田 | 564人 | 345人 | 61.2% |
| 5位 | 小早川 | 75人 | 45人 | 60.0% |
| 6位 | 浅井 | 53人 | 31人 | 58.5% |
| 7位 | 今川 | 140人 | 76人 | 54.3% |
| 8位 | 大内 | 179人 | 92人 | 51.4% |
| 9位 | 明智 | 41人 | 20人 | 48.8% |
| 10位 | 尼子 | 76人 | 36人 | 47.4% |
1位は美濃の斎藤家で79.7%。仕えた74人のうち59人が、最後は別の家にいました。5人に4人が出ていった計算です。
4位に織田家が入っているのが目を引きます。564人という最大級の家臣団を抱えながら、その6割が最後は別の家にいました。
4.人が残った家、下位10
逆に、離脱率が低いほうです。
| 家 | 仕えた人数 | 離れた人数 | 離脱率 |
|---|---|---|---|
| 徳川 | 966人 | 46人 | 4.8% |
| 毛利 | 568人 | 42人 | 7.4% |
| 島津 | 144人 | 11人 | 7.6% |
| 伊達 | 80人 | 8人 | 10.0% |
| 伊東 | 36人 | 4人 | 11.1% |
| 黒田 | 44人 | 6人 | 13.6% |
| 宇都宮 | 46人 | 7人 | 15.2% |
| 山内 | 32人 | 5人 | 15.6% |
| 長宗我部 | 60人 | 11人 | 18.3% |
| 前田 | 59人 | 11人 | 18.6% |
徳川家が4.8%で最も低くなりました。966人が仕えて、離れたのは46人だけです。
ここまでの結果を素直に読めば、「斎藤家はブラック、徳川家はホワイト」となります。
ですが、この読み方は間違いです。
5.からくり①:滅んだ家は、必ず高くなる
上位に並んだ家をもう一度見てください。斎藤、六角、浅井、今川、大内、明智、尼子。
すべて、戦国のうちに滅んだ家です。
家が滅べば、生き残った家臣は必然的にどこかへ移ります。本人が「この家は嫌だ」と思ったかどうかとは関係ありません。
誰が見ても滅んだと言える6家と、江戸時代に大名として続いた6家を選んで比べてみます。
| 区分 | 対象の家 | のべ人数 | 離れた人数 | 離脱率 |
|---|---|---|---|---|
| 戦国のうちに滅んだ | 武田・今川・浅井・朝倉・北条・尼子 | 932人 | 429人 | 46.0% |
| 江戸時代に続いた | 徳川・毛利・島津・伊達・前田・佐竹 | 1,860人 | 127人 | 6.8% |
46.0%と6.8%。7倍近い差がつきました。離脱率は、働きやすさよりも先に「家が続いたかどうか」を映しています。
離れた人がどこへ行ったかを見ると、さらにはっきりします。
| 離れた家 | 人数 | 最も多い行き先 |
|---|---|---|
| 武田 | 189人 | 徳川 91人(48%) |
| 今川 | 76人 | 徳川 42人(55%) |
| 織田 | 345人 | 豊臣 202人(59%) |
| 豊臣 | 306人 | 徳川 197人(64%) |
| 浅井 | 31人 | 織田 16人(52%) |
行き先が、自分の家を滅ぼした相手に集中しています。武田を離れた人の半分近くが徳川へ、今川を離れた人の半分以上も徳川へ移りました。
これは転職というより、勝った側に吸収された動きです。1582年に武田家が滅び、家臣が徳川家に召し抱えられました。数字はその歴史をなぞっているだけでした。
徳川家の4.8%も同じことです。徳川家は最後に勝った家なので、多くの人にとって終着点になります。居心地がよかったから残ったのか、ほかに行き先がなかったのかは、この数字からは分かりません。
6.からくり②:残ったのは、忠誠とは限らない
ここで、ひとつ気になる家があります。長宗我部家です。
長宗我部家は関ヶ原の戦いのあと改易され、大坂の陣で滅びました。滅んだ家なのに、離脱率は18.3%と低いままです。宇都宮家も1597年に改易されていますが、15.2%です。
家が滅んでも離れなかった、本物の忠臣たちなのでしょうか。生没年を調べてみました。
| 家 | 最後まで残った人 | うち没年が分かる人 | 没年の中央値 | 改易された年 |
|---|---|---|---|---|
| 長宗我部 | 49人 | 38人 | 1587年 | 1600年 |
| 宇都宮 | 39人 | 30人 | 1559年 | 1597年 |
家が終わるより先に、本人が亡くなっていました。
長宗我部家の家臣は、中央値で1587年に亡くなっています。改易の13年前です。宇都宮家にいたっては38年前でした。
ここで、離脱率の数え方を思い出してください。主君欄の並びの最後にある家が「最後までいた家」で、それより前に出てくる家が「離れた家」でした。
たとえば、長宗我部元親に仕えた久武親信という武将がいます。主君欄には長宗我部家しか書かれておらず、1581年に戦死しました。
長宗我部元親 ← これだけ。1581年に戦死この人の主君欄は長宗我部家で終わっているので、集計上は「最後までいた」に入ります。長宗我部家が改易されるのは19年後の1600年ですから、そのとき彼はもういません。
つまり、家より先に死んだ人は、何があっても「最後までいた」に数えられます。
移らなかったのではなく、移る機会が訪れる前に人生が終わっていた、ということです。長宗我部家に最後まで仕えた49人のうち35人は、主君欄に長宗我部家しか書かれていません。その多くが改易より前に亡くなっています。
宇都宮家はもっと極端です。中央値の1559年に亡くなった人にとって、1597年の改易は38年後の出来事でした。
こうなると、低い離脱率は忠誠の証にはなりません。家臣が早く亡くなる家ほど、勝手に数字が下がっていきます。
結局この指標が測っているのは、家の働きやすさではありませんでした。
家と家臣、どちらが先に終わったのでしょうか。離脱率が見ているのは、ほとんどそれだけです。
7.それでも残る、本物のブラック
2つのからくりが分かったところで、素直な対策を試します。滅んだ家を外して、並べ直せばいいはずです。
「大坂の陣(1615年)を越えて、大名家として残ったか」で36家を分けました。残ったのが14家、滅んだ・改易されたのが21家です。織田家だけは、信長の政権が崩壊した一方で信雄が大和宇陀松山藩2万8千石を得ているため、どちらとも言えず外しました。
| 順位 | 家 | 離脱率 | 仕えた人数 | 江戸時代のその後 |
|---|---|---|---|---|
| 1位 | 蒲生 | 67.7% | 31人 | 会津藩(1634年に断絶) |
| 2位 | 小笠原 | 46.7% | 30人 | 小倉藩など5藩 |
| 3位 | 加藤 | 42.1% | 38人 | 熊本藩・会津藩 |
| 4位 | 上杉 | 30.1% | 216人 | 米沢藩 |
| 5位 | 細川 | 24.0% | 100人 | 熊本藩 |
| 6位 | 佐竹 | 20.9% | 43人 | 秋田藩 |
| 7位 | 前田 | 18.6% | 59人 | 加賀藩 |
| 8位 | 山内 | 15.6% | 32人 | 土佐藩 |
| 9位 | 黒田 | 13.6% | 44人 | 福岡藩 |
| 10位 | 伊東 | 11.1% | 36人 | 日向飫肥藩 |
| 11位 | 伊達 | 10.0% | 80人 | 仙台藩 |
| 12位 | 島津 | 7.6% | 144人 | 薩摩藩 |
| 13位 | 毛利 | 7.4% | 568人 | 長州藩 |
| 14位 | 徳川 | 4.8% | 966人 | 江戸幕府 |
全体で見ると、滅ばなかった14家は11.8%、滅んだ21家は45.4%でした。滅亡の影響を抜くと、離脱率はぐっと下がります。
そのうえで、この表の形に注目してください。2位以下はなだらかに下がっていくのに、1位だけが離れています。
1位の蒲生家67.7%と、2位との差は21ポイント。ここだけ飛び抜けています。
2位以下は、やはり滅亡の変形だった
念のため、2位以下も中身を見ておきます。すると、上位はほとんど「滅亡」の言い換えでした。
2位の小笠原家は、離れた14人のうち7人の行き先が武田家です。1550年に武田信玄に信濃を追われた分でした。家そのものは後に徳川のもとで譜代大名として復活しますが、戦国のあいだは本拠を失っています。家名が続いたかどうかで分けた私の区分が、取りこぼしていた形です。
4位の上杉家は、離れた65人のうち北条家へ20人、織田家へ10人。御館の乱の混乱と、会津120万石から米沢30万石への減封が効いています。5位の細川家も、離れた24人のうち8人が三好家へ移っており、これは三好長慶に実権を奪われた細川京兆家の分です。
3位の加藤家は、そもそも数字を信用できません。加藤清正の家、加藤嘉明の家、加藤光泰の家が、姓が同じというだけで1つにまとまっているためです。
こうして潰していくと、最後に残るのは1位だけでした。
1位:蒲生家
蒲生家は滅んでいません。会津92万石の大大名として、江戸時代に入ってからも続いています。それなのに、仕えた31人のうち21人が去りました。
行き先もばらばらです。豊臣に7人、徳川に6人、石田に2人、前田に1人。滅亡による吸収であれば行き先は1つに集まりますが、そうなっていません。
何があったのか。調べると、理由がありました。
1595年、当主の蒲生氏郷が40歳で急死します。跡を継いだ秀行はまだ13歳でした。政務を握った重臣の蒲生郷安と、譜代の家臣たちが激しく対立します。
郷安は対立相手を城に誘い出して斬殺し、これに激怒した家臣たちが軍勢を集めて報復に動きました。豊臣秀吉が前田利家に調停を任せても収まりません。
3年続いたこの騒動は「蒲生騒動」と呼ばれています。1598年、秀吉は「御家の統率がよろしくない」として蒲生家を裁定しました。
会津92万石から、宇都宮12万石へ。8割の減封でした。
家が滅んだわけでもなく、家臣が先に死んだわけでもありません。それでも人が出ていった家。67.7%という数字は、内紛そのものを映していました。
36家のうち、この意味で「ブラック」と呼べたのは蒲生家だけです。
ただし蒲生家に仕えた人は31人しかいません。数人動けば順位が変わる規模です。この1位を支えているのは数字そのものより、蒲生騒動という別口の裏づけのほうだと思っています。
8.🔍 ちなみに、どうやって調べた?
ここからは、今回の集計方法について少し詳しく説明します。
「主君の名前から、どうやって家を判定したの?」と気になった方はぜひどうぞ。
分析方法をくわしく見る
使用したデータ
Wikipedia 日本語版の「Category:戦国武将」と、そのサブカテゴリ「Category:戦国大名」に含まれるページから、基礎情報テンプレート({{基礎情報 武士}})の内容を取得しました。2026年8月時点のデータです。
| 区分 | 件数 |
|---|---|
| 名寄せ後の全ページ | 5,553 |
| 主君の記載があるページ | 4,731 |
| 30人以上が仕えた家 | 36 |
名前から「家」を判定する
主君欄には「徳川家康」のように個人名が並びます。ここから家を取り出すため、各ページの氏族欄から家名の一覧を作り、最長一致させました。
また、後継者は「徳川家康 → 秀忠」のように名字なしで書かれることが多いため、名字が付いていない名前は直前と同じ家として扱っています。
同じ家が別名で出てくる問題
ここが今回の落とし穴でした。次の3つは、放っておくと別の家として数えられてしまいます。
- 羽柴と豊臣:秀吉が名字を変えただけで、同じ家
- 松平と徳川:家康が改姓する前の名。放置すると「松平を離れて徳川へ移った」人が68人も出る
- 甲斐と武田:「甲斐武田氏」から国名だけを拾ってしまう
この3つを寄せたところ、松平家(離脱率50.0%)が消え、徳川家の離脱率は5.1%から4.8%に下がりました。
ALIAS = {"羽柴": "豊臣", "木下": "豊臣", "松平": "徳川", "甲斐": "武田"}離脱率の数え方
主君欄を仕えた順の家の並びに直し、連続して同じ家が続く部分をまとめます。その並びの最後にある家を「最後までいた家」、それ以外を「離れた家」として数えました。
同じ家に戻る人がいるため、1人が同じ家を2回数えないようにしています。真田信之のように上杉家と徳川家を行き来した人は、それぞれ1回として扱いました。
分析上の注意点
今回の数字は、Wikipediaの記載をもとにした集計です。次の点にご注意ください。
- 記事本文のとおり、離脱率は働きやすさではなく「家と家臣のどちらが先に終わったか」を強く反映している
- 主君欄の書き方は記事ごとに異なり、統一された形式ではない
- 主君の記載がない822人は集計から除いている
- 30人未満しか仕えていない家は、割合が不安定になるため除いている
- 姓が同じだけの別の家は区別できていない(加藤清正の家と加藤嘉明の家、細川京兆家と熊本藩の細川家など)
- 滅んだかどうかの区分は「大坂の陣を越えて大名家として残ったか」で分けた。家名が続いても本拠を失った家(小笠原など)は「残った」側に入っている
- 家の判定は自動処理のため、まれに誤りが含まれる可能性がある
- 記録が残っている武将に限った分析であり、当時の武士全体の傾向とは限らない
9.まとめ
- 離脱率が最も高いのは斎藤家の79.7%、最も低いのは徳川家の4.8%
- 戦国のうちに滅んだ家は46.0%、江戸時代に続いた家は6.8%
- 離れた人の行き先は、自分の家を滅ぼした相手に集中している
- 離脱率が低い家には、家が終わる前に家臣が亡くなっていた家も混じっている
- 滅ばなかった14家だけで並べると11.8%まで下がり、蒲生家だけが67.7%で突出する
- 滅亡でも死没でも説明できない例外は、蒲生家ただ1つだった
10.次に調べたいこと
今回の集計から、さらに気になる疑問が出てきました。
- 家が滅んだ年で区切れば、純粋な「自分の意思での移動」を取り出せるか
- 内紛が記録されている家は、ほかにも離脱率が高いのか
- 同じ家から出た人たちは、同じ家へ移る傾向があるのか
- 家臣を最も多く受け入れた家はどこか
- 受け入れた家臣の数と、その後の石高に関係はあるのか
ブラックな家を探したつもりが、見つかったのは指標のほうの弱点でした。
それでも、2つのからくりを取り除いた先に蒲生家が残ったのは収穫でした。数字が高い理由を1つずつ潰していくと、最後に本当の理由が残ります。
転職回数が最も多い戦国武将は?同じ主君欄のデータを、武将の側から数えた記事。最も多く家を移ったのは誰か。datasanpo.com
